井上靖

堅田の浮御堂に辿り着いた時は夕方で、その日一日時折思い出したように舞っていた白いものが、その頃から本調子になって間断なく濃い密度で空間を埋め始めた。わしは長いこと浮御堂の廻廊の軒下に立ちつくしていた。湖上の視界は全くきかなかった。こごえた手でずだ袋の中から取り出した財布の紐をほどいてみると、五円紙幣が一枚出て来た。それを握りしめながら浮御堂を出ると、わしは湖岸に立っている一軒の、構えは大きいが、どこか宿場の旅宿めいた感じの旅館の広い土間にはいって行った。そこがこの霊峰館だった。 わしは土間に立ったまま、帳場で炬燵にあたっている中年輩の丸刈の主人に、これで一晩泊めてくれと言って五円紙幣を出した。代は明日戴くというのを無理に押しつけると、主人は不審な顔つきでわしを見詰めていたが、急に態度が慇懃になった。十五、六の女中が湯を持って来た。上り框に腰かけ、衣の裾をまくり上げて、盥の湯の中に赤くなって感覚を失っている足指を浸した時、初めて人心地がついた。そしてこの旅館では一番上等の、この座敷に通されたのだった。すでにとっぷりと暮れて燈火をいれなければならぬほどの時刻だった。 わしは一言も喋らず、お内儀の給仕で食事をすませると、床の間を柱にして坐禅った。わしはその時、明朝浮御堂の横手の切岸に身を沈めることを決心していた。石が水中に沈んで行くように、この五尺の躰が果して静かに沈んで行けるかどうか、わしは不安だった。わしは湖の底に横たわる自分の死体を何回も目に浮かべながら、一人の男の、取り分け偉大な死がそこにはあるように思った。